2002年5月12日。午後、ちょっとひまだったので運転免許について調べものをして、 いろいろ寄り道をしたあげく、現状に深くため息をつかざるを得なかった。
まず、私の意志としては、運転免許など取りたくもないし、
取れと言われても精いっぱい抵抗したい(小型特殊ならまだ考えるが :-)。
理由はかんたんで、「みんな持ってるから」。私にありがちな理由だけど、
でもみんな持っているなら、一人ぐらい持っていなくても不自由はしないはず。
事実、現状でも不便じゃないし。あと、自分で車を運転するということは、
交通事故の加害者になるリスクを著しく高めることであるから、
「なんちゃって君子」としては危ないものに近づきたくない、というのもある。
そんなわけで、現在は免許を持っていない。皮肉なことに、
学生時代は実家も下宿も自動車教習所まで徒歩5分という立地だったのだが、
今は実家も現住所も変わり、自動車教習所は遠い存在になっている。
「みんな免許を持ってる」ということを裏付けるデータを探すべく、
警察白書を読んでみると、ちょうどいいデータがあった。「年齢別、男女別運転免許保有者数(平成10年)」というものである。
ごていねいに日本の人口と免許保有率まで併記してあるので手間が省けた。
これを見ると、驚くべきことに、私の年代の男性は免許所持率96.8%となっている。
さらに30代に足を踏み入れると実に98.1%ときたもんだ。
念のため「男女別、種類別運転免許保有者数(平成10年)」も調べてみると、
免許所持者に対する「バイク専用免許」所持者の割合は、
男性(全年齢)ではたかだか4%にすぎず、
実際に9割以上の人が乗用車を運転できる状態にあることが想像される。
Web 上で同志を探していたときに偶然発見したページがえらく笑えたのだが
(特に「蓮実重彦『倫理としての免許不保持』」なんてのが)、
この人曰くの「車ファシズム」という言葉が冗談とは思えない状況である。
何せ30になったら所持率98%であるから、
たとえば「30過ぎて運転免許を携帯してないやつは不審人物」などと言われかねない。
まぁ、実際には、所持率が上がれば上がるほど「不所持」
という事実がステータス(?)として意味を持ってくるので、
「どんどん上がれ上がれー、99.9%にでもなってみろー」と内心思っているのだが。
ちょっと話はそれたが、ともかく私は運転免許など持ちたくない。
しかし、業務上の都合により、
このポリシーの維持は向こう2年の間に確実に危機にさらされる。
すなわち「車がないと仕事ができない、
よって免許をとれ」と言われかねない状況なのである。
(同時に電話機形移動体通信端末の導入も迫られそうだ。
誇張抜きで、車や携帯電話を見るたびに憂鬱な気分になっている。)
実際、どの程度まで免許取得を迫られるか分かっていないのだが、
迫られても可能な限り抵抗はしたい。
しかし相手もオトナだから、ちゃんと筋の通った抵抗をしなくてはならない。
それには「免許をとれない」ということにもっともらしい理由をつけるしかない。
その理由として、有力ではないかと思ったのが「運転適性がないこと」。
私はある種の運動に関しては平均を著しく下回る能力しか持ち合わせていないし、
同時にいくつものことをやるのが苦手だ(常人が Windows NT
クラスだとすれば、私は Windows 3.1 か MS-DOS 6.2
並み)。それを身体的ナントカと精神的ナントカがどうのこうの、
というのに適当に結びつけ、5段階評価の1ぐらいをもらえれば、
免許取得の圧力に対して多少は抵抗できるかな、と考えた。
実際、免許を取った人の話によると、
自動車学校では何か選択式の適性検査を受けさせられるというから、
これで低い点数をとる方法を考え(もちろん、
自然に低得点が得られるならそれにこしたことはない)、
自動車学校に入る前にその結果を得ることができればいいだろう。
というわけで Web で検索してみたのだが、当然というか何というか、
件の適性検査を事前にできるサイトはなかった。
自動車保険をやっている会社が「あなたの適性を検査します」
などという企画をやっていることはあるが、
これは「すでに自動車を運転できる人」向けのものであって、
運転をしない人には答えがたい問題も多く含まれている。
また、「運転免許 &&
適性検査」で多く引っかかったのは、身体機能に障害を持つ人に対するものだった。
身体に障害のある人も、
適性検査で「運転能力あり」と判断されれば免許はとれるらしい。
身体に障害があって、なおかつ自動車を運転する能力はあるという状態ならば、
そういう人にとって自動車は強力な道具となるであろう。
また、現状では、いろいろな障害に対して「こういう障害の人は免許はダメ」という、
障害名や病名による一律の制限(欠格条項)があるらしく、
それをなくすべく活動をしている人もいるようだ。
そういう人たちには敬意を表したいし、
わざわざ「免許をとれなくする方法」を考えている私は何なんだと思わなくもない。
とにもかくにも、「適性がなくてダメそう(だから自主的にやめとく)」
という理由で免許取得を断念するには、
実際に免許を取る段階になってみないとダメなようだ。それとも、
免許をとるためのテキストを買ってきたら何か似たようなテストが載っているかな?
あとは同志のページを探って「免許を拒み続けるテクニック」を学ぼうと思ったのだが、
探してみると、
「免許は持ちません」という人より「免許は持たないつもりだったけど、
とっちゃいました」という人のほうが圧倒的に多い。
まぁ、免許所持率からすれば妥当な結果である。
「意図的に免許をとらない人」の Web ページが少ないのは、
母集団が小さいのだから理解できる。
私が打ちのめされた気分になったのは、Web
で発見した「免許をとってしまった人」が、
ことごとく免許取得に前向きだったからである。
たとえば「私はかつてクルマ嫌いであった、しかし低公害車が世に現れたので、
これに乗るために免許をとろうと努力した」であるとか、
「私はまわりから『運転やめとけ』と言われるような人間だったが、
努力のかいあってなんとか免許がとれた」であるとか、
とにかくみんな、免許をとるということに関して非常に積極的で、「そもそも、
免許を取るということが正しい選択なのか」という点に疑いを差しはさまないのである。
たしかに、「運転できない」と「運転できる」を比較したとき、
後者のほうが便利であることは疑いのないところであろう。
「運転できる」人は「できるけどしない」という選択肢を持っているが、
「運転できない」人が「できないけどする」というのは無理だ。
また、「車を運転する」という新たな能力を獲得することに、
プラスのイメージを抱きこそすれ、マイナスのイメージは抱かないようだ。
しかし、「車が運転できたほうが便利」
「免許をとることは新たな能力を獲得することである」という事実から、
「だから免許はあったほうがよい」という結論を導き出すことに、
なぜ、何の疑問も持たずにいられるのだろうか?
つまり「便利」「新たな能力の獲得」は無条件で「よいこと」なのだろうか?と。
それは「死んだ人の臓器を病人に移植しても、
死んだ人が損をするわけではない、しかし病人は得をする可能性がある、
だから臓器移植には賛成」という論法と似てはいないか。
前述の「倫理としての免許不所持」、このパロディが妙に気に入ってしまったのは、
主に、このタイトルが「不便=悪」「進歩=善」
という短絡的思考に対する絶妙な批判となっているからなのだ。
なんて、グチならいくらでも書けるんだけど、 現実にいつまで免許不所持を貫けるかは定かではない。 せいぜい、他人とちがう免許取得の方法でも調査しておくか。 今のところ気になったキーワードは「届出校」。